ライン
東家の天保だんじり マーク
ライン
   
東家だんじりTOP
 
祭礼曳行計画
〜終了いたしました〜
祭礼若連中

東家だんじりについて
 
東家だんじりの歴史
 
アルバム
 
お知らせ
 

東家区TOP

コミュニティセンターTOP

リンク

東家区TOP 東家の天保だんじりTOP > 東家だんじりの歴史
ライン
     東家だんじりの歴史  
ライン
 
    だんじり  
       
ライン
  ☆東家のだんじり、曳行の歴史  
       
    明治の頃、東家には三台のだんじりがあり、それぞれ秋祭りに曳行されてました。
東家町内の三つの地域、上出(西)、寺脇(北)、南出(南)が所有。

まず、明治二十九年(1896)五月、上出(西)が大阪住吉の名工「大佐」より購入。
つづいて同年九月、寺脇(北)が同じく「大佐」より購入。
のち、南出(南)も住吉郡墨江村(現大阪市・住吉区)方面より地車を購入。
明治期後半、それぞれ秋祭りの際に曳行されてました。

大正初期、電気が通ったため電線がだんじりにひっかかるなど、その他さまざまな事情により、
やむなく三台とも売却することとなりました。
とある古老が子供の頃の話として、売却の際だんじりは、解体した状態にして、どれがどのだんじりかわからないようにして、それぞれの売却先へ運ばれて行ったとのこと。
だんじりに未練が残らないようにするためだったのでしょうか。
 
       
    その後それら三台のだんじりについては、
寺脇(北)は現・河内長野市松ヶ丘で現在も曳行。
 
       
    南出(南)は現・河内長野市片添を経て、平成二十年より橋本市柏原にて現在も曳行。  
       
    上出(西)のだんじりについてのその後は不詳。
五條市方面へ売却されたとの話も有るが、現在はそれにあたるだんじりは無いとのこと。
 
   
 
    その後昭和の御大典を期に、昭和三年〜四年頃(1928〜29)に地元大工の手によって三台が製作、先代と同じくそれぞれ三つの地域、上出(西)、寺脇(北)、南出(南)により曳行されてました。
それぞれ彫刻も無い小さな地車で、子供の囃子方が乗り、曳行中は大人の手により高く持ち上げる、「差し上げ」や「ぶん回し」なども行われていました。
現地車購入時に処分されたとの事ですが、一部お囃子に用いられた「鉦」や「太鼓」が現在も残っています。
 
   
 
    そして、昭和三十四年(1959)現在のだんじりを購入。
三つの地域合同で『東家」として曳行されるようになりました。

なお、現在のだんじりのお囃子は、それぞれ三つの地域のお囃子のうち、上出(西)のものを中心にその当時整理して、今「東家のだんじり囃子」として伝承されています。
 
       
ライン
  ☆東家の天保だんじりの経歴  
       
    だんじり正面  
   
 
    現在橋本市東家で曳行されているだんじりは、岸和田市中町の先代の地車です。
今から約170年前、江戸時代・天保期に製作され、現在なお曳行されている岸和田型地車(下地車)としては、最古のものといわれております。
 
   
 
    時は幕末。
泉州南郡岸和田浜方の中町(現・岸和田市中町)が新調。
天保十年(1839)に製作開始、翌天保十一年六月二十五日日に完成しました。
大工棟梁等は不明ですが、彫工は浪華彫刻の名門、花岡一門の花岡源助です。
現在もだんじり内部に、その書付(サイン)が残っています。
 
   
 
    この時代の地車の特徴として、大屋根の昇降のカラクりが装備されていました。
地車が岸和田城内に入る、いわゆる「城入り」が江戸期には行われていました。
ただ、城の門がだんじりの高さより低いため、からくりを用いて、だんじりの屋根をさげ、城内に入ることをしなければなりませんでした。
そこで、小屋根を後ろへ移動させ、大屋根を下げカラクリにより、岸和田城の門をくぐり、城内へ入るということが行われていました。
 
   
 
    また、彫刻のデザインもこの時代、岸和田藩の許可が必要でした。
徳川家にまつわるデザインはもちろん、織田家や豊臣家といったかつての敵にまつわるものは、固く禁じられておりました。
そこで、三国志など中国の故事などがデザインに選ばれていました。
そして許可された彫り物について、許可の紅しとして、そのすべての裏面に「岸極」の焼き印がつけられました。
ただ、現在の大連子の彫り物は忠臣蔵の物語となっています。江戸期ならば以上の理由により許可されません。
明治期以降に何らかの理由で取り替えられたものと推測されます。

このように、江戸時代が終わって明治期、そして大正期と、新調されて以降80年以上にわたって、中町により、岸和田の街を通りを、勇ましく曳行されました。
 
   
 
    大正十一年(1922)中町が、現地車新調のため、泉南郡木島村清児<せちご>(現・貝塚市清児)がこの地車を購入しました。
この時代に、大屋根の昇降するカラクリ装置は取り外され、各部は固定されたようです。
 
   
 
    戦後、昭和二十三年(1948)清児が前年の昭和二十二年、現地車の新調を行った為、この地車は泉北郡郷荘村今在家(現・和泉市芦辺)が購入しました。
以降、昭和三十年頃までは曳行されていたようです。
 
   
 
    昭和三十四年(1959)九月十二日。それまで3台の子供だんじりを曳行していた橋本市東家が、それにかわるだんじりとして購入しました。
この時に岸和田市の植山工務店にて修繕したところ、旧中町の地車であることが判明しました。
また、旧来の東家の曳行スタイルにあうように、肩背棒(担い棒)が取り付けられる等の改造もおこなわれました。
 
       
    だんじり曳行1977  
   
 
    平成元年までは、大屋根には純白のサラシで化粧を施し、小屋根側には、たくさんの祝儀袋や大きなご祝儀ビラを生の松と竹につけ、なびかせて曳行してました。
現在も橋本区の船楽車や、胡麻生区や柱本区、隅田地区の担ぎだんじりなどでは、このスタイルで曳行されています。
 
       
    だんじり曳行1986  
   
 
    大改修前  
    ※平成元年(1989)大改修直前の一般公開にて  
   
 
    平成二年(1990)大改修がおこなわれ、欠損していた彫刻の一部復元などもあり、現在の姿へとなりました。
それ以降、松竹にかわり後ろ旗を立てるなど、現在の曳行スタイルにとなりました。
 
       
    大改修後  
   
 
    同年、大阪市鶴見区で開催されていました「'90国際花と緑の博覧会(花の万博)」に出展。
平成三年(1991)橋本市で開催された「和歌山県ふるさと誕生イベント」に出展。
平成六年(1994)和歌山マリーナシティで開催されていました「世界リゾート博」に出展。
平成十八年(2006)二月 橋本市有形民俗文化財に指定。
 
   
 
    現在、毎年10月第2土日、東家若連中を中心に、東家区のたくさんの大人や子供たちによって、橋本市の秋祭りで曳行されております。  
       
    曳行2012  
       
ライン
    参考、引用資料:
奥村浩章著「東家の天保だんじり」
この文献の詳細につきましてはこちらをご覧下さい

しんし会 ためになる話を聞く会「『東家だんじり』について」
角川書店刊「角川日本地名大辞典27 大阪府」
角川書店刊「角川日本地名大辞典30 和歌山県」
だん吉友の会発行「地車かわら版(各号)」
「山車・だんじり悉皆調査」ホームページ
ほか
 
       
    曳行2011  
       
ライン

東家区
〒648-0072 和歌山県橋本市東家4丁目7−2
東家コミュニティーセンター内

Copyright © 橋本市 東家区